僕が日記をつけてみた結果。

沙穂がいろんなことについてマイペースに書いてみた結果です。

あの日。3.11

みなさんこんばんは。

そしてお久しぶりになりますね、沙穂です。

 

ようやく暖かくなってきました、それと共に花粉が飛び始めましたねあははははははははははははははは

こちとらくしゃみがとまらないし目はかゆいし喉もかゆいし顔は腫れてるんじゃぼけぇ!!!

 

アレルギー検査でアレルギー反応度が数値で出るんですけど、100いったら相当なところを300位(もっとだったかな)出した女ですこんにちは。

暖かいのはすごく嬉しいんだけど花粉だけは本当にやめてほしいと思う今日この頃です笑

 

 

 

さてさて前置きが長くなりましたが。

おとといは3月11日でした。

普段こういうことをするキャラでは全くないのですが、たまにはちょっといいかなと。

 

(ここから先は私が震災の日当日に体験したことを書きます。苦手な方は読まないことをおすすめします。)

 

 

 

 

7年が経ったらしいです。私にはつい先日起こったような気がしてなりません。

 

あの日、まだ私は小学生でした。

その日は早く授業が終わる日で、上履きをもって帰ってくるのを忘れた私に、同じ班(その小学校は登校班、帰宅班というものがありました)の男子がその男子の分も持って来るように言ってきて。しょーがないなーと学校のなかに入りました。

教室に入って、上履きを二人分持って、早く帰りたかったので小走りで外に向かいました。

靴を履いて、「持ってきたよー」って言いかけたとき

 

 

 

 

お前ら全員伏せろ!!!!

 

 

 

 

と先生が叫んで。

 

何があったのか分からないまま私は地面に押さえつけられました。

そして自分の横にヒビが入っていく道路が見えました。

校舎にもヒビが入っていきました。

 

あぁ、私、死ぬんだなって。

幼い頭にもそのことばがよぎったのを覚えています。

 

 

幸い怪我はなく、回りの子達にも怪我はなかったので、児童は一旦校庭に集められました。

皆さんもご存じかもしれませんが、このような緊急時に備えて小学校では児童引渡し訓練という、親が直接学校に迎えに来る訓練が行われます(茨城だけだったらごめんなさい)。

だから、待っていればお母さんが迎えに来てくれるものだと思い込んでいました。私はひとりじゃないって、そう思い込んでいました。

 

しかし、先生が言ったのは。

 

 

お前ら全員、怪我しないように、余震が来ないうちに、走って家に帰れ。

 

 

何をいってるのかわかりませんでした。

普通に考えて、バカじゃないのかと思いました。

当時、私は学区内で一番遠いエリアにすんでいて、私の家から小学校までは歩いて一時間、早く歩いても45~50分かかる距離でした(大人の足だと40分かからないぐらいです)。

その距離を走って帰れなんて無理だろうと。絶対に途中で死んでしまうと思いました。

 

その場にとどまろうかと迷いましたが、先生が言っていることに逆らえるはずもなく。同じ班の子達と3人で走りました。

同学年でそのエリアにすんでいたのは私と男子2人だけでした。

 

 小学生男子2人と女子1人。重いランドセルを背負って。

回りには誰もいません。崩れかかった家やヒビが入った道路があるだけ。

必死になって走りました。

あんなに必死になったことは前も先も、これ以外ありません。

 

幸いなことに、15分ぐらい走ったところで友達のお母さんが来るまで迎えに来てくれたので乗せてもらい、無事に家の前まで行くことができました。

 

家の外観はほとんど変わっていませんでした。ただ、いつもきれいに飾ってあった花が倒れていて、植木鉢から出てしまっているものがあったぐらいです。

そのまま家に入ろうかと思ったのですが、近所のおばちゃんが「危ないから私の車のなかに一緒に入ってなさい」と入れてくれて、少しでしたがお菓子もくれました。

何度か余震が来ましたが余りたいしたことはなく、市内放送もなにも入らなかったのでひとまず家に帰ることにしました。

 

家に入って、ものすごいショックを受けました。

倒れた棚、テーブル、散乱した本、本来はその場所にはなかったはずの椅子。

体力的にも精神的にも疲れていたのでまずは座りたかったのですが座る場所なんてありませんでした。

ショックのあまり泣くこともできなかったのを覚えています。

 

 

ここから先の記憶はあまりありませんが、何よりも不安だったことは今でも覚えています。

 

お気づきのかたもいらっしゃるかもしれませんが、震災が発生してからここまで、一度も自分の親に会うことができていません。

その当時は携帯電話は持っていませんでしたからすぐに連絡することなんてできませんでしたし、家から電話を掛けても回線が込み合っていてなかなか繋がりませんでした。そして茨城の田舎の方に住んでいたので近くに公衆電話があまりありません。

 

小学生にとって、緊急時に自分の親に会えない、連絡すら繋がらないことがどれだけ不安だったか、思い出しただけで怖いです。

後日親に聞いたのですが、震災発生後、学校側からなにも連絡がなかったそうで、一度学校に行ったんだそうです。そこで帰しましたと言われ、慌てて家に帰ってきたと言っていました。

 

ここで私が伝えたいこと、ここまで長々とかいてきた訳。

 

絶対に子供を1人にさせないでください。

連絡はしっかりと徹底してください。

 

教育関連の方がもしいらっしゃったら、本当にこれを覚えておいていただきたいです。

先生になる、児童、生徒を親から預かるということは命を預かっているのと一緒です。そこをしっかりと考えてもらいたいなと思いました(高校生が何を偉そうにという感じですが)。

 

 

 

あの日から7年、今の小学生で震災のことをはっきりと覚えているという子は少なくなってきました。

 

風化させたくない。

 

これからも語り継いでいく、これはあの日を経験していろんなことを知った私の使命であると考えています。

大規模な被災を受けた訳ではないけど、だからといって伝えるのは自分の仕事ではない、というのは少し違う気がします。

 

地震が多い日本だからこそ、みんなで伝えていかなきゃいけないなって、そう思いました。

 

 

皆さんの日常が平和で楽しいものになりますように。

 

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました

 

 

沙穂